前橋フィールドミュージアム

前橋天神山古墳出土銅鏡「前橋」の名は、古代の施設である「駅家(うまや)」の付近の橋を「うまやのはし」と呼んだことから地名になったと伝えられ、「(うまや)(ばし)」が「前橋」に改められたのは江戸時代前期ごろと言われています。

前橋市域には、遠く旧石器時代から現代までの長い歴史が各地域に刻まれています。
古墳時代、東国の有力地域として栄えた群馬県には、13,000基以上の古墳がありました。そのうち本市には1,600基ほどあったことが確認されており、群馬県を代表する古墳が市内各地に代々築かれました。
古墳時代の初期には、東国最大の前方後方墳である前橋(まえばし)八幡山(はちまんやま)古墳(こふん)や、多量の鏡が副葬された大型前方後円墳である前橋(まえばし)天神山(てんじんやま)古墳(こふん)が築かれ、今もその威容(いよう)(しの)ぶことができます。また、古墳時代の終末期には宝塔山(ほうとうざん)古墳(こふん)(じゃ)穴山(けつざん)古墳(こふん)が築かれ、見事な石室のつくりは工人達の技術の(すい)と言えるでしょう。

山王廃寺出土塑像

優れた古墳文化を背景として、古墳時代終末期には総社地区に東国最古級の寺院である山王(さんのう)廃寺(はいじ)が築かれました。塑像(そぞう)(土で作られた仏像)や緑釉(りょくゆう)陶器(とうき)一括(いっかつ)資料(しりょう)など畿内(きない)の有力寺院に匹敵する豪華な出土品は、当時の優美な様子を知ることができます。

奈良時代には元総社地区に国府が置かれ、周囲に国分寺がつくられるなど、古代上野国の政治・文化の中心地として栄えました。

平安時代末期の(てん)(にん)元年(1108)には、浅間山の噴火により本市域も大きな被害を受けました。火山災害から復旧のため、前橋市上泉町から伊勢崎市田部井町にかけて、全長13kmにおよぶ巨大な用水路「(おんな)(ぼり)」が築かれました。この用水路は結局未完となりましたが、地域の復興への熱意と火山災害を受けながらも復興に取り掛かることのできる有力武士団の存在が推定されます。史跡として各地に点在する女堀は、大規模な土木工事の様子を今に伝えてくれます。

(うまや)(ばし)(じょう)が築かれたのは文明(ぶんめい)年間(1470年代)とされています。本市域は戦国時代に上杉・武田・北条氏等の攻防の的となり、戦乱の結果、街の中心は現在の中心街に移りました。

江戸時代には、川越から移った酒井氏が城主となり、9代150年の長きにわたって前橋藩を治めました。酒井家の歴代墓地は(りゅう)海院(かいいん)に残されています。

その後前橋城主は松平氏に代わりましたが、利根川の洪水によって前橋城が大きな被害を受けたため、松平氏はわずか19年で川越に移城し、前橋は100年近く廃城の状態が続きました。

初代前橋市長 下村善太郎

のちに「糸のまち」と呼ばれて本市の主産業となった製糸業は、安政6年の横浜開港と藩主松平氏の奨励によりますます盛んになりました。製糸業の隆盛を背景とし、後に初代前橋市長となる下村(しもむら)善太郎(ぜんたろう)ら生糸商人たちの活躍によって街の復興が図られ、慶応3年(1867年)には城を再築して松平氏を前橋に迎えましたが、まもなく明治維新となりました。前橋市役所周辺には、現群馬県庁周辺に築かれた土塁(どるい)(くるま)(ばし)門跡(もんあと)など、前橋城のなごりが数多く残されています。
 明治14年には県庁が前橋に置かれて街の繁栄の基礎が築かれ、明治17年には初代県令楫取素彦(かとりもとひこ)の提言により迎賓館として臨江閣(りんこうかく)本館と茶室が建てられました。その後明治22年に町制を、同25年に県内で最初の市制を施行し、前橋市となりました。明治43年には臨江閣別館が築かれ、1府14県の物産を陳列する「連合(れんごう)共進会(きょうしんかい)」を開催しました。
 太平洋戦争終結の直前には、戦災により中心市街地の8割を焼失するという被害を受けましたが、これを機に戦災復興事業を施行するとともに、近接町村を合併して市域を拡大し、街は大きく発展しました。

その後平成13年には特例市の指定を受け、平成21年4月には県内初の中核市へ移行するなど、さらなる飛躍を続けています。