前橋フィールドミュージアム

おうちでミュージアム②

「山王廃寺」と「放光寺」

前橋市総社歴史資料館

 「おうちでミュージアム」その2は、前橋市総社町総社にある国指定史跡「山王廃寺(さんのうはいじ)」から出土した文字の書かれた瓦についてです。

 6世紀の半ばに朝鮮半島の「百済(くだら)」から仏教が伝来しました。その後588年に日本初の本格的寺院である「飛鳥寺(あすかでら)」が造られ始めると、最新の技術や知識である仏教文化を取りこもうと、各地の豪族たちも競って寺院を造営しました。新しい様式で建てられた建物は、造営した豪族の権威を強く印象付けたことでしょう。7世紀になると寺院造営の波は関東にも及びますが、群を抜いた規模や内容を誇るのが、7世紀後半に創建された山王廃寺です。これまでの調査から、一辺約80mの回廊に囲まれた「法起寺式(ほっきじしき)」と呼ばれる伽藍(がらん)を持つ寺院であったことが判明しました。

 昭和50年代の調査では、金堂と塔の中間の位置で「放光寺(ほうこうじ)」と文字が書かれた瓦が出土しています。「放光寺」とは、古代の文献でも登場するお寺の名前です。高崎市山名にある「山上碑(やまのうえひ)」(国特別史跡)は、母親をとむらうための石碑で、息子の「長利」は放光寺の僧侶であると記されています。また、現在の県知事にあたる「国司(こくし)」同士の事務引継文書である「上野国交代実録帳(こうずけのくにこうたいじつろくちょう)」にも放光寺の記載があり、以前放光寺は「定額寺(じょうがくじ)」という有力寺院であったことが記されています。この瓦のほか、「方光」とスタンプを押した瓦がいくつも出土しており、山王廃寺が「放光寺」であった可能性がグンと高くなりました。

「放光寺」銘瓦

山上碑

 

 山王廃寺では、この他にも当時の繁栄ぶりをしのばせる遺物が数多く残されており、政治や文化の中心地域にそびえる重要な寺院でした。