前橋フィールドミュージアム

古墳こふんってなに?

 古墳とは、土を高くってつくったお墓のことです。今から1,700年以上前の、3世紀後半からつくられはじめ、北は青森県、南は鹿児島県まで分布ぶんぷしています。群馬県では4世紀ごろからつくり始められ、7世紀のおしまいごろまでつくられました。古墳はいろいろなかたちがありますが、「石室せきしつ」という亡くなった人をおさめる部屋をつくり、古墳のまわりにはほりをめぐらせています。


総社そうじゃ二子山ふたごやま古墳こふん


まえ二子ふたご古墳こふん石室せきしつ

だれが、どのように古墳を作ったの?

 大きな古墳には、その地域をおさめた豪族ごうぞくが眠っていると考えられます。古墳をつくるには、設計せっけい測量そくりょう、石を加工かこうする技術者ばかりではなく、土を掘ったり、石を持ってきてならべるなど、いろいろな作業をする人がたくさんになります。古墳には、大きなものから小さなものまでありますが、大きければ大きいほど多くの人が必要でした。古墳時代には、今のような機械がありませんから、田んぼや畑などで使うクワやスキ、土や石を運ぶモッコなどをつかって大きな古墳をつくりました。


うずたかく積み上げた墳丘(宝塔山ほうとうざん古墳こふん


まえ二子ふたご古墳こふん石室せきしつ断面だんめん

古墳にはどんな種類があるの?

 古墳にはいろいろな形があります。上から見て丸い形をした「円墳えんぷん」や、四角い形をした「方墳ほうふん」、丸と四角がつながったような形の「前方後円墳ぜんぽうこうえんふん」、四角と四角がつながったような「前方後方墳ぜんぽうこうほうふん」などがあります。

 亡くなった人をおさめる石室せきしつにも流行があり、最初は、墳丘のてっぺんに穴を掘ってひつぎに入れた遺体いたいめ、その上に天井てんじょういし粘土ねんどなどをしき、さらに土をつめて埋める「竪穴式たてあなしき石室せきしつ」でした。6世紀になると、古墳の横側に入口をつくり、石を積み上げて部屋をつくって遺体を納める「横穴式よこあなしき石室せきしつ」が使われるようになりました。


竪穴式たてあなしき石室せきしつ前橋まえばし天神山てんじんやま古墳こふん


横穴式よこあなしき石室せきしつ宝塔山ほうとうざん古墳こふん

大きい古墳のほうがエライって本当?

 大きな古墳こふんにほうむられた人ほど偉いというわけではありませんが、大きな古墳をつくるには多くの人を作業に動員どういんする必要があり、古墳に使う石や土も大量に必要になります。より大きな古墳を作れる人は、より多くの人を集めることのできる力があり、経済的にもより力があった人だったということができます。


古墳の階層性かいそうせい
(都出比呂志編(1989)「古墳時代の王と民衆」『古代史復元6』講談社より)


前方後方墳ぜんぽうこうほうふん前橋まえばし八幡山はちまんやま古墳こふん


前方後円墳ぜんぽうこうえんふん王山古墳おうやまこふん

総社古墳群ってどんな古墳なの?

 総社そうじゃ古墳群こふんぐんは、利根川の西側の、前橋市総社町そうじゃまちから大渡町おおわたりまちにかけて広がる古墳群です。現在は、前方後円墳ぜんぽうこうえんふん3基、方墳ほうふん3基、円墳えんぷん3基が残っています。総社古墳群は、その大きさや、古墳をつくる技術の高さ、美しい出土品などから、東日本を代表する古墳群の一つに数えられます。
 遠見山とおみやま古墳こふん王山おうやま古墳こふん→(おう河原山かわらやま古墳こふん:消滅)→総社そうじゃ二子山ふたごやま古墳こふん愛宕山あたごやま古墳こふん宝塔山ほうとうざん古墳こふんじゃ穴山けつざん古墳こふんの順でつくられたと考えられます。


総社古墳群の分布


総社古墳群のうつりかわり

はにわってなに?

 粘土ねんどでかたちをつくって焼いたもので、人や動物、家や弓、かさの形をしたものや、丸いつつの形をしたものなど、いろいろな形があります。はにわには、それぞれいろいろな役割やくわりがあったと考えられています。たとえば、丸い筒の形をした「円筒えんとうはにわ」は、古墳のまわりやふんきゅうをめぐるように立てられていて、悪いものが古墳の中に入らないようにしていたと考えられます。

 総社古墳群では、遠見山とおみやま古墳こふん王山おうやま古墳こふん総社そうじゃ二子山ふたごやま古墳こふんではにわが出土しており、「円筒はにわ」や「人物じんぶつはにわ」、「馬形うまがたはにわ」、「大刀形たちがたはにわ」、「盾形たてがたはにわ」などがあります。

円筒えんとうはにわ(なか二子ふたご古墳こふん

あさ顔形がおがたはにわ
(中二子古墳)

たてもち人はにわ
(中二子古墳)

馬形うまがたはにわ
内堀うちぼり遺跡群いせきぐん

つえ形はにわ(まえ二子ふたご古墳こふん

とも形はにわ(中二子古墳。とも:矢をるときに、弓のつるが手に当たらないよう手首に巻いた武具ぶぐ

後二子古墳出土はにわ
(円筒はにわ・朝顔形はにわ・盾形はにわ・人物はにわ・大刀形はにわ・とも形はにわ・ゆぎ形はにわ)

古墳にはどのようなものがそなえられたの?

 現代でも生前好きだったものをお墓にそなえますが、古墳にもさまざまなものが供えられました。ネックレスや耳飾みみかざりといった装飾品そうしょくひんや、刀剣とうけん甲冑かっちゅうなど武具、かがみ鉄製てつせいの農具などがあります。前橋まえばし天神山てんじんやま古墳こふんでは、5面の鏡や大小の刀、銅製どうせいのやじり、鉄製のおの釣針つりばり、糸をつむぐための紡錘車ぼうすいしゃなど、数多くの副葬品ふくそうひんひつぎに納められていました。残念ながら、総社古墳群では副葬品の多くはすでに失われていましたが、総社二子山古墳から出土したかぶつちの大刀たちは、現在行方ゆくえ不明ふめいですが、細かくかれた絵図が残されており、さまざまな細工がほどこされた美しい大刀たちであったことが分かります。


前橋まえばし天神山てんじんやま古墳こふん出土品(複製)


総社そうじゃ二子山ふたごやま古墳こふん出土かぶつちの大刀たち絵図(前橋市立図書館所蔵)


総社二子山古墳出土頭椎大刀(復元品)

古墳時代の人たちはどんなところに住んでいたの?

 群馬県はまわりを火山にかこまれていて、古墳時代にもたびたび噴火ふんかがありました。渋川市の黒井くろいみね遺跡いせき中筋なかすじ遺跡いせきなどで、火山灰に埋もれた家などが見つかっていて、古墳時代の人々の生活を私たちに教えてくれています。古墳時代のムラに住んでいた人は、地面を掘りくぼめて床をつくる竪穴式たてあなしきや、地面をそのまま床とする平地式へいちしきの住居に住んでいました。住居の中にはカマドを置き、明かりやだんをとっていました。カマドのまわりには食器や、調理ちょうりのためのカメやコシキ、食料などを貯蔵ちょぞうするためのツボなどが置かれていました。
 また、高崎市三ツ寺みつでら遺跡いせきや前橋市梅ノ木うめのき遺跡いせきでは、地域をおさめた豪族ごうぞくの住まいが見つかっています。豪族の住まいは、まわりに溝をめぐらせ、生活するための建物や、マツリを行う場所などが見つかっています。


中筋なかすじムラの様子(渋川市教育委員会提供)


復元した竪穴式たてあなしき住居じゅうきょ
中筋なかすじ遺跡いせき


竪穴式住居の中の様子


カマドの様子


三ツ寺Ⅰ遺跡の豪族ごうぞく居館きょかん
(模型:高崎市教育委員会提供)

古墳時代の人たちはどんな暮らしをしていたの?

 古墳時代、生活の中心になるのは米づくりでした。前橋市もと総社そうじゃ明神みょうじん遺跡いせきでは、古墳時代の田んぼが見つかっています。今の田んぼと比べると、ひと区画くかくがとても小さく、多くの区画に水がいきわたるような工夫がなされていました。また、元総社明神遺跡では、田んぼや畑で使うための農具のうぐが出土しています。


古墳時代の田んぼ。区画くかくの大きさに注目!(元総社明神遺跡)
仏教ぶっきょうってなに?

 現在いろいろな場所にお寺があり、皆さんの家の近くにもお寺があるかもしれません。仏教とは、もともとインドのシャカが、今から2,400年ほど前の、紀元前5世紀ごろにはじめた教えで、中国や朝鮮半島を経由けいゆして、日本には6世紀半ばごろ伝えられました。仏教の教えにともなって、さまざまな技術や文化が伝えられ、とう金堂こんどうなどの巨大な建物や仏像ぶつぞうなどは、人々の目を大きく引いたことでしょう。このような新しい文化を取り入れて、自分の力を見せつめようと、奈良や大阪をはじめ全国各地の豪族ごうぞくたちは、競って寺院じいん建立こんりゅうしました。群馬県にも新しい文化である仏教が伝わって、最初につくられた本格的な寺院が山王さんのう廃寺はいじです。


ほう隆寺りゅうじ(奈良県)


唐招提寺とうしょうだいじ(奈良県)

なんで山王廃寺さんのうはいじがあったとわかるの?

 山王廃寺さんのうはいじは、すでに建物はありませんが、大正時代にとう心柱しんばしらを地面の下で支える礎石そせきとうしん)が発見されて、古代の寺院があることがわかりました。そのまわりでは、かわらの破片が多く見つかり、屋根の飾りである「石製鴟せきせいし」や、塔の心柱の根元を飾る「根巻ねまきいし」、土で作られた仏像ぶつぞうの「塑像そぞう」などが発見され、奈良や大阪の大寺院だいじいんにも匹敵ひってきする寺院であったことがわかりました。


とうしん


石製鴟せきせいし


塑像そぞう

山王廃寺さんのうはいじはいつ・だれが建てたの?

 発掘はっくつ調査ちょうさで出土したかわら土器どきなどを調べた結果、7世紀の後半ごろにつくられ、10世紀の後半ごろまで続いていたことがわかりました。山王さんのう廃寺はいじについての記録が残っていないため、誰がつくったのはわかりませんが、山王廃寺と同じころに、宝塔山ほうとうざん古墳こふんじゃ穴山けつざん古墳こふんなどの古墳がつくられていて、総社そうじゃ古墳群こふんぐん・山王廃寺とも石をたくみに加工する高い技術が使われているため、総社古墳群にほうむられた豪族が山王廃寺をつくったと考えられます。


山王さんのう廃寺はいじがつくられたころの瓦


さまざまな文様の瓦

山王廃寺さんのうはいじはどんなお寺だったの?

 昭和~平成の調査の結果、山王さんのう廃寺はいじの様子が明らかになりました。東側に仏様の遺骨いこつをまつる「とう」が、西側には仏像を安置する「金堂こんどう」が置かれ、塔と金堂の北側には、お坊さんが仏教の講義こうぎや研究をする「講堂こうどう」が置かれました。建物のまわりには、1辺が80mほどの「回廊かいろう」という屋根のついた廊下ろうかがめぐっていました。寺院の中心的な建物を「伽藍がらん」といいますが、山王廃寺は、奈良県法起寺ほっきじと同じ伽藍がらん配置はいちであったことがわかりました。

 これらの建物以外にも倉庫そうこをはじめ多くの建物が見つかっていて、講堂の北で見つかった「北方ほっぽう建物たてもの」は、お坊さんが生活したり、食事する「僧房そうぼう」または「食堂じきどう」ではないかと考えられています。


山王さんのう廃寺はいじ伽藍がらん配置はいち


金堂こんどう(左)ととう(右)(ほう隆寺りゅうじ


回廊かいろうほう隆寺りゅうじ

山王廃寺さんのうはいじからはどんなものが出土しているの?

 山王さんのう廃寺はいじでは、有力な寺院であったことを物語る貴重な遺物が、たくさん出土しています。石製鴟せきせいしや多量のかわらてつくぎ、建物に吊るされた風鐸ふうたくなど建物を飾るものや、根巻ねまきいし金銅製飾こんどうせいかざり金具かなぐ、土で作られた仏像である塑像そぞうなどの建物の中を飾るもの、緑釉りょくゆう陶器とうき一括いっかつ資料しりょう、銅製のハンコや銅製のわんといったお寺で使われていたものなどがあります。


根巻ねまきいし


塑像そぞう 神将像しんしょうぞう


塑像そぞう 菩薩像ぼさつぞうほか


緑釉りょくゆう陶器とうき一括いっかつ資料しりょう

放光寺ほうこうじってなに?

 「放光寺ほうこうじ」という名前は、古文書こもんじょなどに出てくるお寺の名前です。高崎市にある「山上やまのうえ」は、亡くなったお母さんのために681年に建てた碑で、息子で、放光寺のお坊さんである「長利ちょうり」という人が建てたと刻まれています。また「上野こうずけの国交くにこうたい実録帳じつろくちょう」は、上野こうずけのこく(現在の群馬県)を治めるために、都から派遣された国司こくし(現在の群馬県知事)どうしの引継ひきつぎ文書で、「放光寺」は「定額寺じょうがくじ」という位の高い寺院であったとかかれています。昭和54年の調査で、「放光寺」と描かれた瓦が山王さんのう廃寺はいじから出土したため、山王廃寺が古代に「放光寺」と呼ばれていた可能性が高くなりました。


放光寺ほうこうじ」と描かれた瓦


山上やまのうえ


上野こうずけの国交くにこうたい実録帳じつろくちょう

国府こくふってなに?

 「国府こくふ」とは、各地を治めるために全国に置かれた施設しせつで、現在の群馬県庁にあたります。国府にはさまざまな施設が置かれ、政治や儀式ぎしきを行うための「国庁こくちょう」を中心に、いろいろな行政ぎょうせい施設しせつである「曹司ぞうし」、国司こくし(現在の県知事)が住む「国司館こくしのたち」、集めた税を保管・管理する「正倉」、国府で働く役人の食事を担当する「くりや」などが置かれました。上野国(現在の群馬県)の国府は、前橋市元総社町のあたりにあったと考えられます。


国府周辺の市の様子(想像)


役人の使った筆記用具(復元)

上野国府こうずけこくふにはどんな建物があったの?

 上野こうずけ国府こくふは元総社町のあたりに置かれていたと推定されていますが、はっきりした場所は分かっていません。しかし、これまでの調査によって、だんだん国府の様子が明らかになりつつあります。

 元総社もとそうじゃ小学校しょうがっこう校庭こうてい遺跡いせき元総社もとそうじゃ蒼海おうみ遺跡群いせきぐんでは、地面に穴を掘って柱を立てた大型のほっ立柱たてばしら建物たてものや、国府を区画すると考えられる大きな溝が見つかっています。また、国府に関係すると考えられる遺物としては、「国厨」や「□曹司」など国府の施設しせつの名称等を書いた土器や、罪などを払う「おおはらえ」という儀式ぎしきで用いる「人形ひとがた」が出土しています。その他にも、すずりや、役人が着る衣装のベルトの飾り、奈良なら三彩さんさい青磁せいじなどの高級陶磁器も出土しています。


上野こうずけ国府こくふ推定地すいていち


ほっ立柱たてばしら建物たてものあと
元総社もとそうじゃ蒼海おうみ遺跡群いせきぐん


人形ひとがた
元総社もとそうじゃ明神みょうじん遺跡いせき

国分寺こくぶんじってどんなお寺だったの?

 天平13年(741)3月、しょう天皇てんのうは、仏教の力で国を治めるために、各国に国分寺こくぶんじを建てるよう全国に命じました。国分寺には、男性のお坊さんが働く僧寺そうじと、女性のお坊さんが働く尼寺にじがありました。

上野国分寺は、上野こうずけ国府こくふの北西にあり、西に僧寺が、東に尼寺が並んで置かれました。これまでの発掘調査によって、僧寺は東西約220m、南北235mにおよび、講堂こうどう金堂こんどうとうが見つかっています。その他、なん大門だいもんや、へいとなるついがき中門ちゅうもん回廊かいろうなどが見つかっています。尼寺では金堂や講堂、中門などが見つかっています。


国分寺塔模型


国分寺ついがき

秋元氏あきもとしってどんな人?

 秋元氏あきもとしは、もともと上総かずさのくに秋元庄あきもとのしょう(千葉県君津市)に支配する土地があったことから、秋元氏を名乗り始めたと言われ、武州ぶしゅう深谷ふかや(埼玉県深谷市)に住んでいました。秋元あきもと長朝ながともは、せきはらの戦いでのはたらきが認められて、1601年総社藩そうじゃはん藩主はんしゅとなりました。秋元氏は、長朝ながともやすともの二代33年の間に、総社城や城下町をつくったり、天狗岩てんぐいわ用水ようすいをつくるなど数々の事業を行って、総社の地の基礎を築きました。その後、秋元氏は甲州こうしゅう谷村やむら(山梨県都留市つるし)や川越、山形、館林へとおさめる場所は変わりましたが、総社町にあるこう巌寺がんじ元景げんけいには秋元氏の墓地がつくられ、ゆかりの品々などが残されています。


秋元氏略年表


秋元あきもと墓地ぼち元景寺げんけいじ


みつ具足ぐそくこう巌寺がんじ

天狗岩用水てんぐいわようすいはいつ・だれがつくったの?

 天狗岩てんぐいわ用水ようすいは、総社藩そうじゃはん藩主はんしゅであった秋元あきもと長朝ながともが、およそ400年前につくった農業用水です。秋元長朝は、総社藩を経済的に豊かな藩にするには、たくさんの水を村々に行きわたらせ、新しい田んぼをつくることのできる用水路をつくる必要があると考えました。用水路に安定して水量の水を引き込むには、総社藩のすぐ東に流れている利根川から水を引くのが一番でしたが、利根川はお城のある場所に比べて、とても低いところを流れていました。このため、総社藩よりずっと北側の利根川の上流から、長い距離の水路を掘って水を引いてくる必要がありました。用水路を掘るための道具などの費用も相当かかる工事でしたが、長朝の決意は固く、総社藩の北にある白井藩の殿様から了解をもらって工事を開始しました。多くの人に工事に参加してもらうため、長朝は年貢ねんぐを3年間免除めんじょし、領民も協力して、大変な難工事の末、工事開始から3年後の1604年に天狗岩用水が完成しました。その後、江戸幕府の代官だいかんであった伊那いな備前びぜんのかみ忠次ただつぐが、天狗岩用水を玉村町まで延長しました。これらの用水によって多くの村々に水がいきわたり、豊かな実りをもたらしました。

 「天狗岩堰てんぐいわぜき用水ようすい」は、現在でも前橋市から高崎市、佐波郡玉村町にかけての広い地域に水を行き渡らせる農業用水路として現在も活躍しており、全長は22.2kmにおよびます。


天狗岩堰てんぐいわぜき用水ようすい


現在の天狗岩堰用水
(前橋市総社町総社地内)


現在の天狗岩堰用水
(佐波郡玉村町しも地内)

どうやって天狗岩用水てんぐいわようすいを掘ったの?

 現代であれば、パワーショベルやダンプなどの機械を使って掘りますが、当時はクワやスキなどの畑や田んぼづくりで使う農具や、モッコやタコといった木や縄などでつくった道具を使って、大きな用水路を掘りました。大変な作業でしたが、領民みんなで力を合わせて難工事をやりとげました。


クワ


スキ


ジョレン


タコ


モッコ

なんで天狗岩用水てんぐいわようすいって言うの?

 天狗岩用水てんぐいわようすいの工事がだいぶ上流まで進んだころ、大きな岩場につき当たりました。岩は砕こうとしても砕けず、割ろうとしても割れず、岩より先に掘り進めることができないため、みんなどうしたらよいのか困っていました。そんな時一人の山伏やまぶしがやってきて、工事をしていた人々を指導し始めました。すると大きな岩は砕け、みんな大いに喜びました。しかし、すでに山伏の姿はどこにもなく、人々は天狗てんぐが助けてくれたにちがいないと語り合い、それからこの用水路は天狗岩用水と呼ばれるようになりました。天狗岩があった場所は不明ですが、天狗をまつったほこらは後に元景寺げんけいじに移され、「がい権現ごんげん」としてまつられています。


天狗岩掘割之図てんぐいわほりわりのず」(煥乎堂かんこどう提供)


がい権現ごんげん元景寺げんけいじ

五千石堰用水ごせんごくぜきようすいってどんな用水だったの?

五千石堰ごせんごくぜき用水ようすいは、前橋市総社町植野で天狗岩てんぐいわ用水ようすいから分かれて総社藩内そうじゃはんないを流れる用水で、五千石もの広い面積をうるおすことからこの名が付けられました。秋元あきもと長朝ながともは、天狗岩用水から水を引き込んで安定した水の量を確保しました。五千石堰用水は、総社城のほりじょう下町かまちの用水として、また総社領内の水田のための用水として重要な用水でした。


五千石堰ごせんごくぜき用水ようすい
(前橋市総社町総社地内)


五千石堰ごせんごくぜき用水ようすい
(前橋市総社町山王地内)

総社城そうじゃじょうってどんなお城だったの?

秋元あきもと長朝ながとも総社藩主そうじゃはんしゅとして総社に来たとき、最初に入った城が荒れ果てていたため、交通の便もよく、攻め込まれにくい前橋市総社町総社に新しい城を築くこととしました。総社城の様子を絵図で見ると、南北780m、東西750mあまりで、城の中心となる天守閣てんしゅかくすみやぐらが建っていました。現在総社城はその姿をあまり残していませんが、防御ぼうぎょのための物見ものみだいに使ったといわれる古墳は「遠見山とおみやま古墳こふん」と名づけられ、城の名残を残しています。


総社城想像復元図

力田遺愛碑りょくでんいあいひってなにが書いてあるの?

りょくでん遺愛いあいは、安永あんえい5年(1776)に建てられた石碑で、こう巌寺がんじに置かれています。天狗岩てんぐいわ用水ようすいをつくるなど総社の地を豊かな土地へと変えた、昔の領主りょうしゅである秋元氏の功績こうせきを碑に刻んで後世に残したもので、「百姓ひゃくしょうたてる」と領民りょうみんたちが建てたことを示しています。別の土地に移ってもなお愛された、領主と領民の強いきずなを表しています。